古典落語と
新作落語の違い。
── 落語という文化について、花緑さんが率直に感じていることをまず聞かせてください。
早い変化はストレスを生むけれど、遅い変化は退屈を生む。僕は“人生”という言葉は、“変化”という言葉に置き換えてもいいくらい、人は変化のなかに生まれ、変化のなかで死んでいくと思っているんです。そういう視点で見ると、落語という芸能もまた、江戸時代に発祥して以降、安定している時期は一度もありません。そもそも落語の文化を安定させようっていうのが間違いで、“不安定の安定”でしかあり得ない、とも思うんです。
── そもそも落語には古典落語と新作落語がありますが、その具体的な違いとはなんですか?
古典とは江戸時代から昭和まで、その間に作者不明も含む“誰か”が作った作品のこと。それに対して新作とは戦後から現代まで、今も作られているすべての噺を指します。つまり古典と新作を分けているものは“年代”です。
── 戦前と戦後、その年代で分けられた理由とは?
それは戦後から人々の暮らしが大きく変わってくるからです。やはり戦前の長屋暮らしと戦後のマンション住まいでは全然違ってきますから。とはいえ、“住む形が変わっても人間の本質はさほど変わらないでしょ?”と言いたいところですが、お客さんの“共感”が変わってきたんだと思います。戦前の暮らし、例えば長屋の壁が薄い、隣近所、町内との付き合いの濃さ、みんなが共有する不便さ……。今のように電化製品のない時代ですから、生活様式が全然違う。すると共感話にはならない。ちょっとくらいの違いなら修正、改良を加える余地があると多くの落語家がそれをやってきましたけれど、全然違ってしまってこれ以上変えたら噺の原型がなくなってしまう、ということで「古典落語」というくくりが生まれたと思います。つまり古典落語という名のもとの時代劇です。“昔のものはいいですね”と当時の噺に価値をつけたんですよね。
落語の本質とは、
観客との「同時代性」にあり。
── 花緑さんは古典と新作、どちらもやっていますよね。
僕は今、半々でチャレンジしています。それも古典は着物で、新作は洋服で。ちなみに、 “いやいや、落語こそ着物に座布団ですよ!”って思います?
── 絶対とは言いませんが、落語と着物と座布団は、やっぱり落語の象徴だと思います。
そうですよね。実際僕自身も、もとは洋服否定派でした。そんな僕の価値観を変えるきっかけになったのは『とくダネ!』(フジテレビ)という朝の情報番組です。僕はこの番組のなかで、『新・温故知人』(※)のプレゼンテーターをさせていただいたんですが、VTRの合間に着物ではなくスーツを着て3分間、落語で物語を伝えていたんです。
── 拝見していました。最初拝見したときは、スーツ姿の花緑さんを観て、すごく不思議な感覚でした。
そうですか(笑)。スーツで落語はですね、最初に僕が番組側に提案させてもらったんです。「朝の情報番組に着物で落語、よりも僕はスーツを着て落語をした方がもっと新鮮に感じます。“特ダネ落語”としてオリジナルを始めませんか?」と。結果としてその提案は実現することになったんです。すると今度は番組を観てくれた周囲の皆さんに、「花緑さん、朝の番組で“落語みたいなこと”をされていますよね」と言われたんです。この「……“みたいな”?」が、改めて僕に落語とは何かを考える機会を生んでくれました。それで考えて出した答えは……やっぱりスーツを着ても落語だったんです。それに気づいて以来、僕は新作落語のときには、洋服を着るようにしたんです。
── “スーツを着ても落語”と自分を納得させた一番の材料とはなんですか?
これは後づけかもしれませんが、落語が生まれた背景を考えてみると、落語ってつねに“同時代”にあった芸能ですよ。同時代であったからこそ、パワーをもって大衆に受け入れられた。であるなら落語をやるスタイルもまた、同時代のもの(=着物)を着て、そのときの生活様式(=座布団に座る)でやるのが当然のこと。だから今、現代ものをやるのであれば、着るものだって洋服でいいし、すべて現代の様式に合わせていいのではないかと思ったんです。ただし、新作でも自分のなかにルールはあるんですよ。例えば噺の演出上、「ここでチャイムの音が欲しいから、効果音入れましょう」という話が作家の方から出たとしても、僕は「それはいりません」と。チャイムの音も、犬の声も、鳥の鳴き声も全部自分でやりますから。芸人が忙しい方がおもしろいんですよ。あとこだわっているのは、落ち着いて話すための、座るという行為。座布団に変わるものは椅子であろうと、新作をやるときは必ず座ります。
── ご自身のなかでルールがちゃんとあるんですね。
洋服で新作をやるようになってから、その昔、先輩、三遊亭円丈師匠の言葉「古典は邪道だ」の意味にもうなずけるようになりました。落語とは江戸の頃からつねに新しくておもしろい噺を欲していたんですよ。つまり今、古典と言っているものも、当時はバリバリの新作ですから。だから新作こそ王道とも言えるということです。そして噺がおもしろいから繰り返される。つまらなければ後には残らないんです。このように落語は本当に刹那的なものだし、最初にお話ししたように不安定に変化しているものなんです。
師弟という関係性こそ、
落語のなかの伝承。
── 落語は不安定であると。その前提に立ったときに、花緑さんは落語のどの部分を “伝承”として捉えていますか?
僕は師弟関係こそ伝承であり、伝統じゃないかと思っています。僕の祖父で師匠の五代目柳家小さんは「弟子がいないような落語家は駄目だ」と何度も口にしたことを耳にしていました。僕も初めて弟子入りしたいという話が来たときに、小さんに相談したら「教えることは学ぶこと。取りなさい」って、即答でしたよ。
── 今、花緑さんにお弟子さんがいるということは、小さん師匠の言う通りだったということですね。
そうですね、今も師匠の言葉は毎日のように痛感しています。弟子になるとは、その師匠からすべてを教わることです。初めは型です。ですが最終的には自分のものを作っていくので、その型は自分の土台として残ります。その上で大切なのは「心意気」。心と意識と気持ちです。どれも目には見えないものです。その「心意気」を受け取るには、日々、修行をするしかありません。今の時代、上下ではなく横の関係を重要視する時代ですけど、落語の世界で師弟関係は絶対に崩れない。だから教わる・教えるっていう関係性にこそ、伝承が込められていると、僕は思っています。
── 話は少しそれるかもしれませんが、インタビューの始まりからずっと今までお話を伺っていて思ったのですが、花緑さんのお話には助走期間がないですね。つねに全力で言葉が返ってくる感じ。落語家として舞台に立っているときと、あまりギャップを感じません。
話すぎましたか?(笑)。僕はね、この世にいてもあの世にいても、どこに自分がいてもいいと思っているんです。それはつまり“今、ここ”にいることが大切なんです。だって、自分がいる場所に喜びを感じられなければ、どこに行ってもきっと不満が出てくるものだから。すべて“今、ここにしかない”という視点。それを受け入れて、納得できてしまえば、時間の密度が変わるし、何より感受性が強くなります。すると見えている景色が変わってきて、自分のいる場所、全部が楽しくなってきます。あと、つねに “作業”っていう感覚を自分のなかで無くすといいですよ。 “これは作業だ”と思い込むと、すべて事務的、機械的な感じがします。そして心のない時間に思えてきませんか。なんでも遊び心を持ってすれば、どんなことも面白く感じてきます。
── その通りですね。でも実際、そうなりたいと思っても、これがなかなか難しい……と言っていては、また始まらないですね(笑)。
そうなるためのキーワードは、“感謝”なんです。僕らは教育上、“頑張る”ということを教わってきているから、頑張っていない自分に不足感が生まれるんです。とにかく、もっと頑張らなくちゃいけない。でもそれが人生のメインになってくると、いつまでも“今”を認めていないことになる。だって頑張るということは、今に納得できていなかったり、もっと先を見据えることですから。でもね、これが感謝という言葉に置き換えると、今を認めることに繋がるんです。だから僕は頑張りの反対語は、怠慢怠惰ではなく、感謝でもいいと思っています。
── 面白い視点ですね。
また、感謝の気持ちを持つための、最初の一歩に大切なのは、“謙虚さ”なんです。謙虚さを心に持って、これが自分のなかで習慣化されると、必ず感謝の気持ちを持てるようになります。そしてそこから愛が生まれてくる。それに感謝や謙虚というフィールドに自分を置いておくと、寄り道することも楽しくなります。感謝や謙虚に無駄という発想は基本的にないですからね。案外とその寄り道、一見無駄にも思える道に、面白いモノやコトが転がっていたりして、それが、僕の場合、“笑い”に繋がっていくことがよくあります。この思考の違い、意識の違いってすごく大きい。さらに言えば、感謝の気持ちがあると、見えないものものも信じられるようになるんです。
── 寄り道すると、ちょっとワクワクしますよね。
僕にとって人生とは、ワクワクこそすべて。ワクワクについては、頭で考えれば考えるほど、わからなくなってしまいますからね(笑)。だから頭の回転を一度オフにして、感じてみてください。ハートで感じるには、やっぱり “今、ここ”に意識を向けることです。だって僕らは本当は、今、ここ以外、体験できないんですから。
※2006〜2009年オンエア。他界した著名人の知られざる一面を丁寧に掘り下げるコーナー