絵を鑑賞するときは、必ず絵の面白みを自分なりに探すようにしているんですが、今回は、襟元のレースの繊細さだったり、ベルベットの質感やピンクの帯の色調といった、洋服の装飾に着目しました。特に色彩は印象的でしたね。綺麗でまとまりがあって、深みもある。色を作り出す染料というのは、素材がなければ出せない色というのが必ずあって、少年の洋服の色はきっと当時にしかない素材から出された色ではないかな?と。それにその当時は、今よりもずっと手間とひまをかけて丁寧に服が作られた時代でもあると思うし、特にこの絵のような貴族の子供が着る服というのは、高級な素材を贅沢に使えているはずなので。ルーヴル美術館が所蔵する前に、この絵を所有していたというイヴ・サン=ローランは、きっとこの少年の洋服の帯のピンクに触発されてデザインしたコレクションもあったんだろうな、と想像したりしながら観ていました。
もしも、ゴヤの作品が現代アートだったなら、ゴヤと自分は同時代を生きることになります。とすると、ゴヤが何を考え、何を捉えて絵にしていったのかということは、自分の感覚のままに観察することができたと思うんです。でも実際の絵は、ヒストリーのある作品。だからこそ、その当時の時代背景や文化、被写体の衣装の様子など、今にない何を捉えるかで、作品の見かたが変わってきますよね。ここ(ミュージアムラボ)は、そういうこともすべて網羅した空間になっていたので、わずか1枚の絵に対しても、本当にいろんな目線で観ることができて、とても面白かったです。
作品を通して作家の考えていることを知る。知ることで、こういう考え方もあるんだなあと発見する。そしてその発見が、物事の捉え方を変えるチャンスになるとしたら、それはすごく豊かなことだと思うんです。それにあるとき気づいて以来、私はアートに触れる機会を自分から意識的に持つようになりました。
なかでも絵を観ることは好きで、いくつかですが所有もしています。絵が自分の生活のなかにあることで、心が自由になっていく様が感じられて。所有する絵はどれもとてもパーソナルな意味合いのものになっていきます。
割と抽象画が好きで、普段から観る機会も多いです。なかでもサイ・トゥオンブリーの作品がずっと好き。先日仕事でニューヨークへ行った流れで、フィラデルフィア・ミュージアムにも足を運んできました。サイ・トゥオンブリーの作品が1室に集約されて展示されていたんです。館内全体には有名な作品がさらりと展示されていて、とても良かったですね。
いろんな場所で出会った絵が、自分のものづくりに直結して表現されることもあります。今期の春夏コレクションの洋服のプリント柄は、サイ・トゥオンブリーの絵から得た発想をベースに、生まれました。また次の秋冬では、ニューヨーク在住のアーティスト、立花博司さんのアートワークを使用して洋服を作らせてもらいました。立花さんの正方形のキャンバスに描かれた作品のシリーズを初めて観たときに、意外性とか偶然性だとかそんな言葉が思い浮かんできて、そこから洋服に対するアイデアが広がっていったんです。個人的に購入した作品は、自宅やお店(「petite robe noire BOUTIQUE」)で飾っています。
また、実際のコレクションに落とし込む場合のほかに、今まで観てきた無数の作品がエレメントとして自分の記憶に刷り込まれているので、そこからアクセサリーの色が選定されたりすることもあります。
ゴヤが生きた時代……、純粋に美しいもの、作り手の美意識そのものが受け入れられた時代から、今はいろんなことが複雑な時代になってきていると思うんです。それはアートの世界に限ることではありません。例えば昔は洋服を作れる人も限られていましたが、今はいろんなことが便利になって、誰でも自由にデザイナーになれる時代で、ものを売る手段も様々にあります。そのなかで作り手やブランドは、商業としても成り立たせないといけません。そういう複雑なものづくりのサイクルのなかに私自身もいること。だからこそ、ものを作る者としての責任については、いつも考えます。
どれだけ自由な発想を自分の内側に持ち続けられるか、何が新しいのか、これは本当に必要なのか、自分はちゃんと理解して消化しているのか……。考えることで生まれるいろんな苦悩があります。でもそんなときにこそアートに触れて、生涯にわたって作り続ける作家の精神性やその重みのようなものを作品から感じることができたときには……、本当に心が救われます。それはきっと、作家と私がいる居場所はまったく違っていても、ものづくりをする苦悩や考えは、どこかでクロスさせることができるから。この考え方も、あくまで私の勝手な想像と解釈だと思います。それでもきっと、どこか通じるものがあると信じて、これからもオープンな気持ちを持って、アートに触れていきたいです。