LOUVRE - DNP MUSEUM LAB
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年表
ジェリコー年譜 日本・世界の動き
1782年 この年より大飢饉が始まる。(天明の大飢饉) 各地で一揆、打ちこわしが起こる。
1787年 松平定信、老中筆頭に就任。1793年に至るまで幕政の改革を行なう。(寛政の改革)
1789年 フランス革命。1792年に絶対君主制崩壊と共和制宣言。1793年1月21日、国王ルイ16世が処刑される。
1791年 9月26日、テオドール・ジェリコー、ルーアンに生まれる。1796年、パリに移住。
1792年 ロシアが、日本との通商を要求。翌年、幕府はこれを拒否。
1799年 11月に軍司令官ボナパルトのクーデタ(ブリュメール18日)。統領政府の樹立。
1804年 ナポレオン・ボナパルトは5月にフランス皇帝即位を宣言し、12月2日に戴冠。帝政は1814年まで続く。
1808年 母の死後、その遺産を相続し、馬専門の画家カルル・ヴェルネの門下に入る。師匠の息子で、後にロマン派画家となるオラース・ヴェルネ(1789-1863)と親交を結ぶ。1810年、歴史画家ピエール=ナルシス・ゲランの門下に入る。ヴェルネのアトリエで、アリー・シェフェールやウジェーヌ・ドラクロワと知り合う。アカデミックな修業を続ける一方で、馬というモチーフに情熱を燃やし、ヴェルサイユにある帝室大厩舎で馬を写生する。
1811年 ゲランの門下で学ぶ傍ら、エコール・デ・ボザール(美術学校)に通い、ルーヴル美術館で巨匠たちの絵画を模写する。衝動的な気質がもとで、品行の悪さを理由に二度も美術館の展示室から追い出される。同じ年、ナポレオンの皇帝軍に招集されるが兵役義務を免れるため父親に助けを求める。父親は、補償金を払って身代わりをたて、身代わりとなったクロード・プチは、1812年2月14日に戦死。
1812年 祖母の遺産を相続したジェリコーは、以後、経済的に不自由のない生活を保障される。1812年のサロンに騎馬像の大作《突撃する近衛猟騎兵士官》(パリ、ルーヴル美術館)を出品し、成功を収める。しかし、1814年、2度目のサロン出品作《戦火を逃れる傷ついた胸甲騎兵》(ルーヴル美術館)は、激しい非難の的となる。第一次王政復古の当初、一時的に近衛軍に入隊し、ルイ18世の近衛騎兵となる。
1814年 ナポレオン退位。国王ルイ18世のパリ入城。君主制の復活(第一次王政復古)。
1815年 ナポレオン帰還。百日天下。ワーテルローの戦いに敗れ、ナポレオンは再び退位。
1815年 ルイ18世のパリ帰還。第二次王政復古(1829年まで続く)。
1816年 ローマ賞コンクールへの参加を試みるが落選。この挫折を機にイタリア行きを決意し、フィレンツェ、次いでローマに赴く。ローマでは、アングルを訪問し、また、ミケランジェロの作品に感服する。
1818年 パリに戻ると、有名な《メデューズ号の筏》(ルーヴル美術館)の制作に取り掛かり、主題の研究に1年以上の時間を費やした。この大作は1819年、サロンに《難破の光景》という題名で出品され、伝統的に歴史画専用とされてきた巨大画布に逸話的な主題が描かれるということは、慣例を覆すことであった。難破者の肉体を描く病的なまでに繊細な写実主義は批評界を驚愕させるが、評価はまちまちだった。この大作を制作する傍ら、軍隊生活やナポレオン遠征の場面を赤裸々な写実主義で描いた絵画を数多く生み出してゆく。その中には《ロシアからの帰還》、《傷ついた兵士を乗せる荷馬車》、《砲弾運搬車》などがある。
1820年 4月に《メデューズ号の筏》を携えロンドンへ渡る。ロンドンで作品が公開される。ロンドンでは画家コンスタブルに出会う。また、注文を受けて《エプソンの競馬》(ルーヴル美術館)を制作。その後、ブリュッセルに亡命中のダヴィッドを訪問し、1821年1月にロンドンに戻る。ロンドンで、《石に描かれた、生活のさまざまな主題》という題名で発表されるリトグラフの計画に取り組む。制作された12枚の版のうち、9枚は馬を主題としたもの、3枚はロンドンの街角の場面を扱ったものである。
1822 ジェリコーは偏執狂の肖像画連作を制作するが、そのうち今日残っているのは5枚だけである。また同時代の社会問題を題材とした2つの大作《異端審問所の開門》、《黒人奴隷売買》の計画を構想するが、制作には至らなかった。また騎馬を主題とした複数の小型絵画と、幅広い配布を目指した多数のリトグラフを制作。
しかしこの年、3度続けて落馬し健康を害してしまう。
1823年 財産を管理する仲買人が破産したため、自身も経済的に破綻する。
1824年 骨髄に損傷を受けて、1824年1月26日に32歳で逝去する。1年後、政府はそれまで買い手のつかなかった《メデューズ号の筏》を買い上げた。
1825年 それまで日本近海を巡航していた欧米の船舶を追放するための条例を幕府が発布。(異国船打払令)
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