1740年
ルイ15世の治世下に、ポンパドゥール夫人の取り計らいで、軟質磁器の工房がヴァンセンヌ王宮の塔の一棟に創設されます。
1751年
ザクセンのマイセン製作所の多彩色が施された作品と一線を画するために、故意に釉薬をかけない無装飾のビスキュイ(白焼き)の彫刻を製作します。
1756年
ヴァンセンヌ製作所は、セーヴルに製作所用に建てられた建物に移ります。現在そこには、教育省の部局が置かれています。
1759年
ルイ15世は製作所を完全に王室の管轄下に置きます。これを機にヨーロッパの磁器製造界で、権威的な存在となります。
1768年
製作所の研究員であったピエール=ジョゼフ・マッケールとロベール・ミヨは、フランスで初めて、カオリンの鉱床をリモージュ付近で発見します。カオリンは、硬質磁器と呼ばれるいわゆる「磁器」に欠かせない素材です。1770年には硬質磁器が商品化されます。
1800年
パリの証券取引所の設計に当たった建築家の息子で、学者でもあったアレクサンドル・ブロンニアールが1847年まで、製作所の所長を務め、著しい発展をもたらします。ブロンニアールの提唱で、1802年から、国立陶磁器美術館コレクションの母体が、3つのグループを中心に収集されます。それは、18世紀の有名なビスキュイに用いられたテラコッタの原作、ルイ16世がドミニク=ヴィヴァン・ドノンから買い取って製作所に贈与した見本用の古代の壺、1809年の「地方長官の調査」の際に集められた陶磁器(トリノとマーストリヒトは当時フランスに属していたが、各地方長官は地元で焼かれた陶磁器をいくつか提出しなければならなかった)の3つのグループです。
1824年
陶磁器と火の芸術のみを取り扱う初めての専門的な美術館、「陶磁器とガラス器の美物館」が開館します。教育的、技術的な使命を持った美術館です。
1876年
フランス第3共和制のもとで、製作所と美術館は、国が専用に建設した建物に移されます。その土地は、サン・クルー公園に属する4ヘクタールの飛び地で、セーヴルの町に所属し、現在でも、製作所と美術館が所在するところです。
1900年/1937年
製作所は万国博覧会や国際展示会を中心に活動します。1900年のパリの万国博覧会、1925年のパリ万国装飾芸術博覧会、1937年の「芸術および技術の博覧会」などがその例です。
1920年から1938年まで製作所の所長を務めたジョルジュ・ルシュヴァリエ・シュヴィニャールは、製作所の財政的独立権を獲得します。一方、美術館は1934年に、ルーヴル美術館の学芸課に所属するようになります。
1963年
国立陶磁器美術館の学芸員であるアンリ=ピエール・フレストは、美術館の本格的な変革を成し遂げ、新しい展示室を開いたほか、『陶磁器に関する研究手帳』を発行し、大規模な展覧会を企画します。
1964年/1975年
製作所は徹底的に近代化への転換を図ります。セルジュ・ゴーティエの指導のもとで現代的な作品の生産に力が注がれます。
現在
磁器の生産においては、21世紀の先鋭的な創作に力を注いでいます。いつの時代でもそうであったように、18世紀ではブーシェ、デュプレシス、ファルコネ、19世紀ではカリエ・ベリューズ、ロダン、1930年代においてはリュルマン、1950~1960年代ではカルダー、ポリアコフ、つい最近では、ピエール・アレシンスキー、ザオ・ウーキー(趙無極)、ジャン=リュック・ヴィルムット、ルイーズ・ブルジョワ、ファブリス・イベール、草間彌生、エットーレ・ソットサス、ピエール・スラージュ、ピエール・シャルパンといった造形芸術家やデザイナーたちが、セーヴル製作所の形と装飾のレパートリーを充実させてきました。
コレクションの取得に関する新方針のおかげで、美術館のコレクションは著しく充実し、主に現代芸術の作品が増えました。
セーヴル陶芸都市では現在、学芸課のチームを含め、約200人の職員が働いています。そのうち130人は、付属養成センターの専門課程で3年間の養成を受けた国家公務員の陶芸家たちです。陶芸家は、27の工房に配属され、約30の異なる職人職に就き、年間数千点の作品を産出しています。生産の25パーセントはエリゼ宮(大統領官邸)やマティニオン邸(首相官邸)といった国家の高級官吏職団に割り当てられ、残りはパリとセーヴルにある二軒のギャラリーで販売されています。 |